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アボリジニ
(1)アボリジニはどこから来たか
 オーストラリアの最初の住人は、アボリジニと称される人々で現在全人口の1.5%を占めている。
  アボリジニ(aborigine)とは通常、原住民、先住民、土着民と訳すが、大文字(Aborigine)の場合はオーストラリア原住民を指す。
 このアボリジニと呼ばれる人々は約4万年前から1万数千年前の間にオーストラリアにやって来た人々であるとされている。
 今から3万5千年前から3万年前は洪積世の末期(氷河時代)にあたり、海面も今より200M低かったと推定されることから、徐々に気温が暖かくなるにつれ、オーストラリアにも人々が移動してきたと思われる。
  最初は、オーストラリアの北部に住み着いていたが、徐々に気候の厳しい大陸全土に分散して住むようになり、当時、陸続きだったタスマニアにも移り住むこととなった。
 しかし、1万数千年前から水位が上昇し始め、ついには、タスマニアのアボリジニは本土とは孤立することとなった。 
(2)伝統的なアボリジニ社会
  白人入植以前のアボリジニは大陸全土に広がり、400から500ぐらいの部族に分かれ、200以上の言語が発達した。
  彼らは、簡単な石器や木器を利用し、狩猟、採取民族としての生活を維持し、農耕は行われていなかった。
  男性が槍やブーメランでカンガルーやその他の野生の動物を捕まえ、女性は簡単な道具を使って食料用植物や魚や貝を採取するという役割分担が行われていた。
  とは言っても、日常の食料の60%は女性たちが調達していたので、家族生活を維持するためには複数の女性がいた方が都合が良かった。
 そのため、アボリジニの家族は一夫多妻制を採用していた。
  男性は初婚(30歳〜40歳)の時には年長の未亡人を妻とするのが通常であり、ベテランの食料採集者得たことになる。
  その後、男性が年を取ると年少の妻を娶り、年長の妻が採取の指導をするなど、考えようによると大変合理的である。   
(3)伝統的なアボリジニの政治と土地観
  白人入植以前のアボリジニの人口はおよそ30万人で、小集団を中心とする社会で、小集団に酋長はおらず、当然のことながら国家組織はなかった。
  そのため、入植してきた白人たちには、交渉すべき政治的権力はないと誤解してしまったが、アボリジニ社会には、長老たちを中心とする政治秩序は厳然と存在していた。
  土地については、我々が考える土地所有の概念はなかったが、先祖の時代から決められた特定の領域を、季節の移り変わりに伴い、食料を求めて正確なサイクルにしたがって移動していた。また、信仰の対象としても重要な意味を持っていた。
  定着農耕民族の白人からすると、アボリジニをあてもなく食料を求めて歩き、特定の土地との結びつきがないと誤解したことが、大きな悲劇を生み出す原因となった。 
(4)アボリジニの宗教
 最も古典的な形態を維持し、すべての宗教の進化の原初形態であるされるアボリジニの宗教は、一般にトーテミズムと呼ばれている。
  アボリジニの宗教を理解するには、「ドリーミング」の思想の理解が重要である。この「ドリーミング」とは、アボリジニの生命の起源を説明するものであり、創世記または神話の世界を意味するものである。
  それによると、昔、神々の時代があり、その時に半人半動物の先祖、あるいは「虹の蛇」とされる創造神が現れ、人間をはじめとして土地、動物、植物などすべてを創造した。
  すべてを創造し終わると創造神は、自らが創造した被造物のどれかに化身して大地の中に潜んだ。
  つまり、生命の源は精霊であり、大地や、動植物には精霊が宿るとされた。そして、精霊は自由に大陸上を動き回り、その精霊が出産適齢期の女に乗り移ると子供が生まれると考えられてきた。
  その結果、精霊が宿っている動物、植物などをトーテムとして、各部族は信仰の対象とし、精霊が宿り、やがて死んでまた生まれ変わって行く場所を聖地として大切にしていたのである。 
(5)白人入植者とアボリジニ絶滅政策
  牧羊産業が盛んになり始めた1830年代から、白人とアボリジニとの対立は大きくなってきた。
  牧草地拡大に躍起となった白人は、武力、暴力、アボリジニ女性の略奪などによりアボリジニ社会の解体を推し進め、次々に土地を取り上げて行った。
  その時の根拠とされたのは
ア.アボリジニは政治制度がなく、成文法も規律ある社会生活もなく、土地の所有関係をはっきりさせるものがないので、土地は未開.未所有のものであるので、だれでも、自由に開拓してよい。
イ.神から与えられた土地を耕作せず、無為に放っておくことはキリスト教精神に反する。
  と言うものであった。

  このように、19世紀から20世紀初頭にかけて、アボリジニは虐殺、毒殺、病気、社会解体により人口が急激に減少(1930年代 6万人台)していった。
  オーストラリアの東南部では、1840年代に純粋アボリジニは消滅し、1876年にはタスマニアでアボリジニは絶滅した。
  しかし、大陸北部、中央部のアボリジニは白人と接触するのが遅く、その頃には白人側の対応も変わっていたので絶滅をさけることができた。
(6)白人入植者による保護の動き
  アボリジニは消え行く民族であると規定されながらも、保護の手も差し伸べられていた。
  しかし、その基本は純粋アボリジニが死に絶えるまで保護し、他方、混血アボリジニは多少とも白人の血が混じっているので文明化し保護しようとするものであった。
  また、ミッションやリザーブ(保護地)を設けてアボリジニを保護する動きもあったが、成功したとは言いがたい。
  というのも、ミッションにおいての教育も、子供を親元から引き離して西欧的教育を与え、古い文化から隔絶させるやり方(盗まれた世代)が一般的であったからであり、また、リザーブについても、土地に飢えた白人によってそれらの土地を奪われ、さらに不毛の内陸に追いやられることが多かったからである。
(7)アボリジニ政策の大転換
  アボリジニ保護政策は場当たり的で徹底したものでなかったが、1911年にノーザン・テリトリーが南オーストラリア州から連邦直轄地になり、アボリジニ問題が連邦によって取り扱われるようになってから、変化が見られるようになった。
  大転換期となったのは、1937年に行われた連邦・州アボリジニ担当部局会議で「アボリジニは死に行く民族という規定を廃止、純粋、混血を問わず白人社会に同化させることを基本方針とし、そのために、アボリジニを積極的に援助し、機会の均等を目指す」ことを明らかにした。
  さらに、1965年には、アボリジニに対する強制同化策を廃止し、文化の維持を認めつつ、オーストラリア社会への統合を促進する統合政策が採用された。
                        <主な対アボリジニ法令、政策等>
年度 法令、政策等 備考、内容等備考考、内容等
1937 連邦・州アボリジニ担当部局会議 アボリジニ絶滅策の否定
1953 被保護者雇用条例 雇用の促進
1959 福祉条例
1962 選挙権付与
1965 平等賃金裁定 連邦仲裁委員会
1965 統合政策の採用
1967 オーストラリアの人口に加算 国民投票にて
1972 アボリジニ問題省の設立
1976 アボリジニ土地所有権法 北部準州にて
1992 マボ判決 連邦最高裁判所
1993 先住権原法
(8)アボリジニと土地所有権問題
  所有の観念こそ違うが、精神的にも経済的にもアボリジニが土地と強く結びついていたことが知られるようになるとともに、アボリジニ側からの訴えも多く出されるようになると、それまで保守的だった裁判所も理解を示すようになってきた。
  1976年にはノーザン・テリトリーでアボリジニ土地所有権法が設定され、土地所有権回復の可能性が拡大された。
  こうした動きは他の州にも波及し、かなりの範囲の土地がアボリジニに与えられるようになり、鉱物・エネルギー産業は、補償の問題等で操業に支障が出ることに大きな懸念を抱くようになってきた。
  こうした流れのなか、1992年6月の連邦最高裁による「マボ判決」が大いに注目される。
  この事例は、オーストラリアの代表的先住民族の1つであるトレス諸島民のエディ・マボとクィーンズランド州政府との間に生じた小島(マレー島)の所有権をめぐる争いであった。
  マボの主張は「マレー島は先祖伝来の島であると同時に州政府の所有とはいえ何ら開発が加えれられたものではない」として返還を求めるものであった。
  マボ本人は、判決を待たずして、死亡したため、原告不在により、土地の変換は認められなかったが、連邦最高裁の判決では「アボリジニ、トレス諸島民はもともとの土地所有者であり、先住者としての土地に対する権利(native title)は白人の入植によっても否定されていない。」とするものであった。
  これを受けて1993年に連邦政府は補償措置プログラムを提示し、同年12月に先住権原法(native title act)を成立させた。
  この法律によって先住民が土地とのつながりを明らかにできた場合、土地の返還あるいは補償の請求手続が確定された。また、証明不可能な場合も考慮して土地買戻しの基金も設立された。
  しかし、この法律は、アボリジニの先住権を認めながら非アボリジニの人々が現在使用しているものについてはそ使用を認めるという不完全なものであり、また鉱物が眠っている土地の所有権については、一端、アボリジニに所有権があるとしてもその権利を一時留保し、鉱山会社の利益を優先させるというものであった。
(9)和解と将来に向けて
  アボリジニ政策の転換後、アボリジニの人口は増え始め1991年の調査では26万5千人いるとされたが、白人入植時を依然下回っている。
  また、諸政策にもかかわらず、アボリジニの失業率は高く平均収入は全オーストラリア平均の半分ほどで、彼らの収入の大半は政府からの福祉手当、失業手当によって構成されている。 
  随分改善されてきてはいるが、一般オーストラリア人と比べ、平均寿命は短く、幼児死亡率が高く、さらに、ノーザンテリトリーやクイーンズランドでは、アボリジニのアルコール中毒とそれに伴う犯罪検挙率が高く、問題は多い。
  長い間迫害され無視され続け、土地との精神的結びつきを失い、経済的自立を失った人々が、いまだ、新しい生活になじめず苦悩している姿が浮かび上がってくる。
  最近のアボリジニの権利意識の高まりとともに、アボリジニは過去のオーストラリア政府の「白人同化政策」に対する謝罪を求めている。
  政府も過去の行為を謝罪するという”和解”が政治上の大きなテーマになっているが、ハワード政権は自由党の支持基盤である保守層への配慮と賠償訴訟の問題を考慮して、過去の白人社会がしてきたことは「遺憾」であるが、「謝罪」はしないという立場を取っている。
  ただし、シドニーオリンピックは、立候補の段階から「アボリジニら先住民に貢献する五輪の開催」を約束し、和解への第一歩にしようとていた。
  そのため、聖火リレーは、アボリジニの聖地のエアーズロックを出発点とし、アボリジニのノバ・ペリス・ニーボーン(アトランタ五輪女子ホッケー金メダリスト)を第一走者とし、最終走者にはキャッシー・フリーマン(シドニー五輪400m走金メダル獲得)を選んだ。
  また、アボリジニの文化を広く理解してもらうため、開会式で2000人のアボリジニ参加し、五輪を記念して開くアートフェスティバルではアボリジニが中心となった。
  このようなオリンピックの取り組みは和解への第一歩として評価できるものであるが、アボリジニが「真に平等で幸福」な生活を獲得して行くのはけっして容易なことではなく、まだまだ時間を要しそうである。  
(10)アボリジニ芸術
  アボリジニ芸術は、岩絵、砂絵、岩彫り、木彫り、木皮画などいろいろな素材で作成されている。
  岩絵で、最も古いのは3万年前に描かれた南オーストラリアのオーラリィに残っているものである。また、ノーザン・テリトリーやオーストラリア中央部にもかなり古いものが残っているが、誰が何の目的で、また何を意味しているのかもわかっていない。
  一方、木皮画は、ノーザン・テリトリーによく見られるが、アボリジニはユーカリの木皮で造った小屋の内側に赤土や黄土、白土を顔料として、木の棒やパンダーヌスの繊維や人の毛髪を絵筆として絵を描いたらしい。
  現代アボリジニの開花を説明する上でジョフ・バードンを忘れるわけにはいかない。シドニーの美術教師であった彼は、パプンヤというコミュニティで、元来中央オーストラリアのアウトバックの地面に描かれていた点描とシンボルで構成された砂絵を、キャンパスにアクリル絵の具を使って描くことを提案し、それが普及して現代のアボリジニ絵画が開花した。

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