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オーストラリアの文化(1)
(1)多文化国家
  1901年に連邦政府が結成されると同時に、有色人種を差別する白豪主義が、掲げられることになり、その後70年あまり続くこととなった。白豪主義が消滅していくのは、1960年代後半になって数多くの非ヨーロッパ系の移民が流入してからのことである。
  1970年代半ばになるとオーストラリアは異文化、異民族に対し開放的で寛容な多文化主義という移民政策を導入し、多くの民族や人種が共存する多文化社会が形成されることとなった。 また、先住民族のアボリジニに対しても、1962年に選挙権が与えられ、1967年には、国民投票で、アボリジニも国勢調査の人口調査の対象になることが認められた。
  近年では、1992年にアボリジニにもともとの土地所有者であることを認めるマボ判決が下され、アボリジニも先住民族としての民族的生活をますます強めることとなった。
  このように、多文化主義が推進されることとなったが、他方では、アジア人の急増によりオーストラリアの伝統的文化・価値、英語が相対化されると同時に、多文化主義によって移民、難民の文化のみが不当に尊重され不公平であるという批判が生じた。
 また、マボ判決等に対し、アボリジニだけが不当に特別扱いされおり、他の人々が逆差別を受けているという批判も強まっており、多文化主義の道のりも平坦ではない。                       1901年に連邦政府が結成されると同時に、有色人種を差別する白豪主義が、掲げられることになり、その後70年あまり続くこととなった。白豪主義が消滅していくのは、1960年代後半になって数多くの非ヨーロッパ系の移民が流入してからのことである。
  1970年代半ばになるとオーストラリアは異文化、異民族に対し開放的で寛容な多文化主義という移民政策を導入し、多くの民族や人種が共存する多文化社会が形成されることとなった。 また、先住民族のアボリジニに対しても、1962年に選挙権が与えられ、1967年には、国民投票で、アボリジニも国勢調査の人口調査の対象になることが認められた。
  近年では、1992年にアボリジニにもともとの土地所有者であることを認めるマボ判決が下され、アボリジニも先住民族としての民族的生活をますます強めることとなった。
  このように、多文化主義が推進されることとなったが、他方では、アジア人の急増によりオーストラリアの伝統的文化・価値、英語が相対化されると同時に、多文化主義によって移民、難民の文化のみが不当に尊重され不公平であるという批判が生じた。
 また、マボ判決等に対し、アボリジニだけが不当に特別扱いされおり、他の人々が逆差別を受けているという批判も強まっており、多文化主義の道のりも平坦ではない。  

       <オーストラリアのノーベル賞受賞者>

   氏    名   賞   研  究  内  容  年 度
ウィリアム・ブラック(父)
ローレンス・ブラック(子)
物理学賞 x線による結晶構造の研究 1915年
ハワード・フローリ− 医学生理学 ペニシリンの開発(共同受賞) 1945年
フランク・マクファレン・バーネット 医学生理学 皮膚移植の免疫耐用性の研究
(共同受賞)
1960年
ジョン・エクルズ 医学生理学 神経刺激の研究 1963年
パトリック・ホワイト 文学賞 The eye of the Storm 1973年
ジョン・ウォーカップ・コーンフォース 化学賞 生態組織に関する化学分野
の開拓(共同受賞)
1975年
ピーター・ドアティー 医学賞 病原菌に関する免疫の研究 1996年
(2)映画
ア.70年代以前の映画
 
オーストラリア映画の第一号は、ハリウッドのそれよりも早かったという事実を知って驚くが、今日までに製作された映画の本数は、ハリウッドのそれに比べるとはるかに少ないし、常に一定数の映画が製作されてきたわけではない。
  60年代には、一時、オーストラリアの生活をユーモラスに揶揄したオッカー・フィルムがブームを巻き起こしたが、主流は依然として、アメリカ、イギリスがしめ、不毛な時代と評価されている。
イ.70年代の映画
 
映画が産業としての型を作ったのは70年代になってからである。この頃にはオーストラリア映画発展協会(現在のオーストラリア映画委員会)や実験的映画基金が設立され、さらに、70年代後半には、連邦政府により10BAという映画投資奨励策が制定され、オ−ストラリア映画は大きく進展した。
  この当時の代表的な作品としては、「ピクニック・アット・ハンギング・ロック」(ピーター・ウィア監督、1975年)、「わが青春の輝き」(ジリアン・アームストロング監督、ジュディ・デイビス主演、1979年)、「ガリポリ」(ピーター・ウィア監督、1981年)などがある。
 この時期の特色としては、都会の生活よりは、ブッシュの生活、時代も開拓時代や20世紀初頭を思い起こさせる作品が作られ、オーストラリアらしさを出すことに精魂を傾けた時代である。
  しかし、国の援助に基づき成り立っていたことから、大きく国の制約を受けていた。とはいえ、国の助成によりピーター・ウィアのような現在では国際的な映画監督となった人材を育てた成果は大きい。
ウ.80年代の映画
 
80年代は、かつてのようにオーストラリアの特質を意識することなく、また、個人の投資による映画も作られるようになった。また、観客層のターゲットもオーストラリアだけでなく、世界的に鑑賞できる作品も多く作られるようになった。
 たとえば、「マッド・マックス」シリーズ(ジョージ・ミラー監督、メル・ギブソン主演)や「クロコダイル・ダンディーT&U」(ポール・ホーガン主演、86年、88年)などは世界的なヒットとなった。
エ.90年代の映画
 
90年代は、人間の魂の深層や心理を探ろうとする普遍性の高い洗練された作品の流れと、多文化主義による社会構造の変化による異文化の衝突が扱われる作品が主流となりそうである。
 前者の作品としては、ニュージーランド出身のジェーン・カンピオン監督の「エンジェル・アット・マイ・テーブル」(1991年)、「ピアノ・レッスン」(1994年)、「ある貴婦人の肖像」(1996年)などがある。中でも、「ピアノ・レッスン」はその年のカンヌ映画祭のグランプリを受賞した。
 後者の作品としては、「ダンシング・ヒーロー」(バズ・ラーマン監督、1992年)、「プリシラ」(1995年)、「シャイン」(スコット・ヒックス監督、ジェフリー・ラッシュ主演、1995年)などがある。中でも、「シャイン」は97年のアカデミー賞(通称オスカー)で主演俳優のジェフリー・ラッシュが見事オスカーを受賞した。
オ.オーストラリアから羽ばたいたスターたち
 
オーストラリア映画から世界のスターとなった先駆者は、なんといってもメル・ギブソンとジュディ・デイビスである。ギブソンが典型的なスター街道を歩いて成功したのに対し、デイビスは玄人好みの演技派として地位を築いた。
 彼らに続くのが、トム・クルーズ夫人のニコール・キッドマン。そして、オスカーを受賞したジェフリー・ラッシュ、アカデミー賞主演男優賞を獲得したラッセル・クロウなどがいる。
カ.豪州発ハリウッド映画
 
豪映画委員会によると、2000年6月までの1年間、豪州への国内外からの映画投資額は410百万豪ドル(約260億円)とここ3年間で倍増し、今後も増えつづける見込みとなっている。
  豪州での撮影が増加している背景には、政府が国立演劇芸術研究所(NIDA)をシドニー近郊に設立し、映画従事者のための教育機関を充実させ、人材育成に長年尽力してきたことがある。米国資本のミュージカル映画のムーラン・ルージュもバズ・ラーマン監督をはじめ、脚本家、衣装デザイナーや俳優の多くがNIDA出身であり、NIDAのクラーク校長は「ムーラン・ルージュはNIDAの映画」と豪語している。
  アカデミー作品賞「ブレイブハート」を監督し、「リーサル・ウェポン」を主演したメル・ギブソンも同校の出身者であり、その他には、「ピアノレッスン」を監督したジェーン・カンピオンが卒業した国立の「豪映画・テレビ・ラジオ学校」の寄与も大きい。
 また、98年にメディア王マードック氏がシドニーに開設した「フォックス・スタジオ」の功績も大きい。ここで、マトリックスやミッションインポッシブル2が撮影され、今、スターウォーズの撮影が進められている。
 フォックス・スタジオのキム・ウイリアムズ社長は「人材が豊富な上、人件費などのコストが安いのでハリウッドで撮影するより、2,3割は安く製作できる」ことをオーストラリアでの撮影増加の理由に挙げている。
(3)音楽
ア.オペラ
 
オペラ・オーストラリアが、オーストラリアの主要オペラ団体で毎年15以上の演目を上演しており、その活動ぶりは、世界でも第3位に入るといわれている。
 日本ではあまり取り上げられないマイナーなオペラや20世紀の作曲家のオペラにも積極的に挑戦している。演出や衣装も斬新かつ独創的で見る者を楽しませてくれる。 
イ.オーケストラ
 
1932年にABCラジオ局のアンサンブル楽団として24人でスタートしたシドニー交響楽団も、今ではABCから独立し、オーストラリア最大規模を誇る交響楽団に成長し、毎月、オペラハウスを中心に活動を続けている。
 また、演奏レベルの高さで定評のあるメルボルン交響楽団もメルボルンを拠点に世界各地で演奏活動を行っている。
ウ.ロック
 
世界に向け最初に羽ばたいたのは、1958年ジョニー・オキーフの「ワイルド・ワン」であった。その後、60年代にはイージービーツの「フライデー・オン・マイ・マインド」が大ヒットした。
 
70年代に活躍したオリビア・ニュートン・ジョンは、実は、英国生まれであったが、オーストラリア育ちで、ここで、カントリー歌手としてデビューした。
 70年代半ばから80年代半ばまではパブ・ロック全盛時代と言われている。この時代に成功したアーティストのどれもが、パブの端っこにステージの付いたライブハウスから出ており、AC/DC「ハイウエイ・ツー・ヘル」、インエクセス「キック」、ミッドナイト・オイル「ベッズ・アー・バーニング」などもみな、パブ・ロック出身である。82年には、メン・アット・ワークが「ダウン・アンダー」で世界的大ヒットを飛ばしたことから、一躍、オーストラリア音楽に注目が集まるようになった。その後、引き続いて、インエクセス、クラウデッド・ハウスがそれぞれ米国のヒットチャートの上位に踊り出た。
 90年代になるとライブ・ハウスは、徐々に減少していったが、「ハネムーン・イズ・オーバー」で94年度のアリア賞(オーストラリア版グラミー賞)を受賞したクルーエル・シーもパブ・ロック出身であった。また、カイリー・ミノーグ「アイ・シュドゥ・ビー・ソー・ラッキー」のようにダンス・ミュージック・シーンで活躍するアーティストも登場するようになった。また、ミノーグとの異色のデュエット「ホエアー・ザ・ワイルド・ロウジイズ・グロウ」で大ヒットを放ち、アリア賞を受賞したニック・ケイブも忘れてはいけない。
 最近最も注目のバンドといえば、シルバーチェアー「トゥモロー」、サベージ・ガーデン「サベージ・ガーデン」、ナタリー・インブルーリア(美人歌手)「レフト・オブ・ザ・ミドル」が揚げられる。
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