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オーストラリアの歴史
(1)先住民族アボリジニ
     オーストラリア大陸にアボリジニの祖先が住み付いたのは、今から5〜6万年前と推定されている。当時、海面が今より200m低かったことが、アジア大陸からの渡航を可能にさせたと考えられている。
 その後、2万年程前から、海面が上昇し始め、アジア大陸との連絡は断たれ、1万年前から始まった農耕文化とは、完全に隔絶されることとなった。
(2)ヨーロッパ人の来訪
 大航海時代に入ったヨーロッパ人は羅針盤と航海術の進歩により世界に乗りだし、16世紀半ばまでに南北アメリカの存在を明確にしたが、ヨーロッパ人によるオーストラリアの発見は17世紀になってからのことである。
  1602年に東インド会社をジャワに設立したオランダは南半球の未知の部分にはさらに肥沃な土地と資源があると信じ、タスマンを派遣した。二度にわたる航海で、彼はタスマニア島を発見し、ニュージーランドにも到達した。
  しかし、その後は、貿易上の特産品が期待できなかったことから、約1世紀間、ヨーロッパから探検隊が派遣された記録はない。 
(3)キャプテン・クックの領有化宣言と植民地成立
 イギリスの探検家のキャプテン・クックは1770年4月29日、エンデバー号に乗り、ボタニー湾(シドニー郊外)に上陸した。その後、北上し8月にケープヨーク付近で、オーストラリア東岸部の英王室による領有を宣言した。
  86年に入り、イギリス政府はオーストラリア大陸の占有植民地化に本格的に動き始め、オーストラリア東海岸にNSW植民地の成立を決め、退役海軍将校フィリップを初代総督に任命した。
(4)広がる植民地
 1788年1月26日、流刑囚780名を含む1200名がシドニー湾に上陸し、その後、1868年まで延べ15.8万人の囚人が大陸に送り込 まれた。
 当初は食糧難や天然痘の蔓延、治安の悪化などにより、思うようにはかどらなかった植民地の建設も、90年代に入り好転し出した。
 97年に南アフリカから輸入された羊(メリノ種)の輸出が1803年に始まり、また、ニューカッスルでの石炭の発見も同じ時期である。
 1810年代に、シドニー西方の肥沃な平野が発見され、1803年にタスマニアの領有を宣言し、25年に英領自治植民地として独立した。
 1826年に、大陸の反対側の西オーストラリアへ入植が始まり、29年に正式に英植民地となった。(全オーストラリアの領有完成)
 36年にマレー川河口に南オーストラリア植民地が誕生した。 
(5)ゴールドラッシュと都市化
 1851年オーストラリアのゴールドラッシュの先鞭をつけたのはハーグレーブズという男で、NSW南西のバサーストで砂金を発見した。これに刺激を受けたビクトリア植民地は金発見委員会を作り、採算にあうような金鉱を見つけたものには報奨金を払うとした。
 この報奨金を目当てに一攫千金を狙う金鉱堀りが大量に集まってきたため、ビクトリアの人口は10年で9.7万人から53.9万人に増加し た。さらに、ゴールドラッシュは70年代にクィーンズランドに、90年代には、西オーストラリアにもブームを巻き起こした。
 その結果、100万人もの人々をオーストラリア大陸に流入させた。その後、 ゴールドラッシュの終焉とともに、過酷な自然状態の内陸部から労働者層は都市に舞い戻り、東海岸の都市部への人口の集中が進んだ。
(6)オーストラリア連邦の成立
 1850年の植民地政府法の制定により、オーストラリア各植民地は植民地憲法を制定し、自治政府と内閣制度をもち、普通選挙の導入など、植民地ながら近代的政治システムを備え持つ社会となった。自治植民地となったことから各植民地境界の存在がもたらす不都合さ、不便さ(郵便、交通、通信、鉄道等のインフラの不統一など)が次第に認識されるようになり、連邦政府の樹立の機運が高まってきた。
  1891年、オーストラリアの6植民地代表にニュージーランド代表を加えて行われた「オーストラレイジア国民協議会」各植民地の一般投票において連邦化を決定するという決議を採択した。
  しかし、NSW議会がこの決議を認めなかったため、連邦化への道 は挫折した。
  その後10年にわたり、幾多の議論が交わされ、1901年1月1日、ニュージーランドを除く6植民地が、ついにオーストラリアとして発足することとなった。
(7)第1次世界大戦とガリポリ・ナショナリズム
  オーストラリアには、イギリスから自立するだけの国力は備わっておらず、大国イギリスの防衛力に依存してのみオーストラリアの国家生存が可能であると考えられていた。したがって、有事における対英協力は必要不可欠となっていた。
 第1次世界大戦で、アンザック軍(ANZAC)と呼ばれるオーストラリア、 ニュージーランド連合軍は1915年4月25日、トルコのガリポリ半島においてトルコ軍と激戦を交え多数の犠牲者を出した。
  オーストラリアにとって敗戦であったにもかかわらず、ガリポリ戦はオーストラリア人のナショナリズムを大きく刺激する事件となり、アンザック・デイとして記念されることになる。
  オーストラリアは第1次世界大戦で33万人の兵士を投入し、6万人の命をなくした。その代償とし得たものは国際連盟への加入であった。これにより、オーストラリアは国際社会において独立国として認められることになる。  
(8)第2次世界大戦と英国離れ
 フィリピンから撤収したマッカーサー米司令官が、ブリスベンに対日反抗基地を置いたことから、 オーストラリアは対日戦の基地としての役割を果たすこととなった。
  1942年2月、北部のダーウィン、ブルームは日本軍による空襲を受け、町は壊滅状態となった。さらに、5月末には、シドニー湾内で日本軍の特殊潜水艇によるフェリーの撃沈、6月初めにはシドニーやニューカッスルの住宅地が外洋から砲撃をうけた。
  この戦争により、オーストラリア人の国民意識は高揚し、独立国家としての明確な国民意識を持ち始めることとなった。
(9)白豪主義から多文化社会へ
 大戦後のオーストラリアでは、国防、経済両面において適正な人口が必要であるという認識が強まり、大量移民計画が実施された。最初は、イギリス、アイルランドからの移民をあてにしていたが、不足し、非英語系のヨーロッパ難民を受け入れることにした。
  50年代になると、復興により、ヨーロッパ難民が不足し始め、イタリア系、ギリシア系と東ヨーロッパ社会主義圏からの移民が増大した。
  これらの人々も60年代になると減少し、代わりにレバノン、トルコなどの中近東の難民、移民を受け入れるようになった。合わせて、 アジアからの移民も教育、専門技術、熟練などの点において高い資格を持つものに限って移住を認めた。(これより先56年にアジア人 にも市民権が与えられるようになった。)
  さらに、70年代の後半からインドシナ難民の積極的受け入れが始まり、今日では人口構成が多様化し、移民全体に占めるイギリス系の割合が減少してきたのである。
  当初、移民政策はメルティングポット型の同化を期待していたが、その後変更され、法の前の平等、機会均等の保証し、母国語や文化の維持を認めるという文化多元化主義を採用した。
  さらに、70年代後半には、積極的に彼らの文化や言語維持のために援助を行うという方向への転換が見られたが、今後どのような形で移民政策、人種政策が展開されるのか目が離せない状態になっている。    
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